秋元正博(ジャンプ)の事故…現在は政治家?葛西紀明のレジェンドだった!【消えた天才】

消えた天才
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秋元正博(あきもとまさひろ)さんは、元スキージャンプ選手葛西紀明さんが最も影響を受けたと言うレジェンドの神的な存在の方です。

 

現在はどうしているのか気になりますよね!

【消えた天才】に出演されます!

秋元正博さんが起こしてしまった事故とは?

 

秋元正博さんのwiki経歴プロフィールを調べてみました。

 

さらに秋元正博さんの選手生命にかかわるほどのフライングでのケガとは?有罪判決とは一体・・?

秋元正博さんは現在、政治家?という噂も!

 

さっそく調べてみました!

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秋元正博のwiki経歴プロフィール!

秋元正博(あきもとまさひろ)
生年月日:1956年9月3日(現在62歳)出身地:北海道札幌市

学歴:北海道岩見沢緑陵高等学校→明治大学政治経済学部卒

選手時代の所属:株式会社地崎工業(現在は、岩田地崎建設)

秋元正博さんは、北海道出身で幼い頃からウインタースポーツに親しまれていました。

もともと運動神経は抜群で他のスポーツは何でもやっていたんだとか。

スキージャンプを本格的に始めたのは2歳年上のお兄さんが小学校2年生のころからスキージャンプをしていて、その影響で同じ道に進んだのだそうです。

1970年代後半から1980年にかけて活躍した日本のスキージャンプ界の中心人物でした。

八木 弘和さん(船木 和喜選手を育てたコーチ)と共に、活躍されていました。

秋元正博さんのあと50cmで届いたメダル・・

【1980年のレークプラシッドオリンピック】での70m級ジャンプ。

 

秋元正博さんはメダル最有力候補と言われて期待されていました。

 

しかし、結果は

八木 弘和さんが銀メダルを獲得!

秋元正博さんは、わずか0.7点差で4位入賞でした。

悔しい思いをされたことでしょう。

八木 弘和さん:87m/83.5m

東ドイツのデッケル:85m/89m

→八木さんとデッケルが/合計得点249.2点で並ぶ

 

秋元正博さん:83.5m/87.5m/合計得点248.5点

八木 弘和さんとデッケルが同店で銀メダルを獲得!

秋元正博さんは、わずか0.7点差で4位入賞でした。

この0.7点差というのは、当時の得点の計算方法でいうと【わずか50cm】の差だったのです・・

そうとう悔しい思いをされたことでしょう。

 

この時にメダルを獲得できていたかどうかで秋元正博さんのスキージャンプ選手としての人生がまた変わっていたのかもしれません。

本当にスポーツというのは何が起こるかわかりませんし過酷ですよね。

その後【ストラブスケプレソW杯】では90m級で悲願の優勝!!

日本人としては初の海外で優勝★という快挙を成し遂げられています!

その時は【カミカゼ アキモト】!!と称されたそうです。

 

秋元正博さんは【通算88勝しており、これは世界記録にもなっています!

 

日本のスキージャンプのレジェンドを作りあげた人物の一人と言える人物だったのですね!

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秋元正博さんが起こした事故とは?

交通事故を起こしていた!

【1980年のレークプラシッドオリンピック】

ではあと50cmでメダルに及ばず、くやしい思いをされた秋元正博さん。

 

1984年の【サラエボオリンピック】を目指し切磋琢磨していた1982年の秋元正博さんが25歳の時のこと。

 

北海道瀬棚町で車を運転していて交通事故を起こして逮捕されています。

しかも自らの不注意で老人をひいて被害者が亡くなってしまったという交通事故で死亡事故・・だったのです。

裁判にもなり、有罪判決となりました。

当時、衝撃的な出来事でした。

事故の影響でオリンピック出場ならず・・

その事故のせいでスキージャンパーとしては【1年間の謹慎処分】になってしまい、【1年間の試合出場停止処分】を受けることになってしまいました。

 

自身の選手生命をこの交通事故で水の泡にしてしまったのです。

 

しかし、秋元さん側に悪意があったわけではないので

遺族から『秋元さんが復帰できるようにしてほしい。』の嘆願書もあったそうです。

 

【サラエボ五輪】の1983-1984年シーズンでは、この事故後の謹慎処分をやっと解かれました。

が、事故の影響もあり、国内の大会のみ出場が許可という条件付きでした。

 

1984年の【サラエボ五輪】では、その当時、最もメダルに近い男と言われていました。

 

しかし結局、文部省からの圧力をかけられて秋元正博さんの方から【サラエボ五輪】への出場は辞退しています。

 

もしこの【サラエボ五輪】に秋元正博さんが出場できていたら・・た人生がかわっていたかもしれませんね。

その時の悔しさを胸に、翌年1985年2月10日に大倉山で開催の【ワールドカップ札幌大会】では優勝!を飾り、みごとリベンジを果たしています。

でも実はインタビューで秋元正博さんは、

『大倉山のジャンプ台が世界一キライなジャンプ台だった。風向きが不安定で物凄く神経を使うジャンプ台だ。飛ぶのがコワイのでとても神経を使ってジャンプに挑んだことで優勝できたのかも。』と語っていました。

秋元正博さんがフライングで負ったケガって?

フライングヒルでの大ケガ

その後、1986年の【バットミッテンドルフ】で行われたフライング世界選手権で、横からの突風の影響でジャンプ中にバランスを崩してしまい、転倒・・、

 

右足スキーが巻き上げられて、前のめりのままランディングバーンに叩きつけられてしまいました。

まさに自動車メーカーの事故の実験のお人形のように容赦なく打ち付けられて2、3度バウンド・・

 

右足首を複雑骨折するというスキージャンパーとしては致命的な大ケガを負ってしまいました。

選手生命が危ぶまれるほどの重症でした。

リハビリの末、奇跡の復活!

粉々になってしまった骨のかけらを根気強くつなぎ合わせるといった難しい手術を乗り越えました。

しかし相当な重症なケガでしたので本人というより、周りの人は選手としてはもう諦めの声も多かったそうです。

しかし、リハビリを根気強くされた結果、翌年には見事復活!

秋元正博さんの意志が固かったのですね~!

『宮様スキー大会国際競技会』で3位に入賞、『伊藤杯 宮の森ナイタージャンプ大会』では優勝を果たしています!

その後も活躍されていましたが、【カルガリーオリンピック】の出場メンバーから落選したことをきっかけに1988-1989年のシーズンにて現役引退されています。

 

その後は世代交代して葛西紀明さんや、原田 雅彦さんにバトンタッチしています。

秋元正博さんの世代が築いた日本のスキージャンプの強みを次世代の葛西紀明さんたちが受け継いでいたんですね。

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レジェンド・葛西紀明さんにも挫折があった

葛西紀明(かさいのりあき)

生年月日:1972年6月6日(46歳)

出身地:北海道上川郡下川町

学歴:東海大学付属札幌高等学校

現在は土屋ホームに所属。
(選手兼任監督)

葛西紀明さんは、姉、葛西さん、妹の3人兄妹で父・母の5人家族でした。

ご実家は裕福ではなく、才能を見出してくれた周りの人がスキー用具や費用を負担したりと助けてくれたのだとか。

幼少期は苦労されていたのですね。

1997年に母親を火災で亡くされています。

 

東海大学付属札幌高等学校を卒業後は、秋元正博さんと同じ地崎工業に所属していました。

 

2014年【ソチ五輪】ではラージヒル銀メダルを41歳にして獲得しています。

その後も現役を続行し、挑戦し続けています。

 

葛西紀明さんにも秋元正博さんと同じような悔しい過去がありました。

 

葛西紀明さんも1998年の長野オリンピックで団体戦のメンバーから外れてしまい、そうとう悔しい思いをされています。

その悔しい思いをバネに、
そのシーズン最後の
【プラニツア ワールドカップ】では当時の【世界最高記録・147.5m】を飛んでみせ、みごと優勝をされています。

 

葛西紀明さんは秋元正博さんにいち早くその才能を見出されていたんだと言います。

そして50歳まで現役選手でいたい!と発言されていましたので、まだまだ活躍を期待したいですね~!

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秋元正博さんの現在は政治家になっていた?

秋元正博さんの現在については次ページへ!

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